東京生まれ。
父親の仕事の都合で小学校4校、中学校3校と日本各地で転校を重ねたことで、よく言えば適切な人付き合いの距離感を覚えた、裏を返せば、周囲を観察しながら中枢グループの女子に嫌われないように立ち振る舞う「日和見主義的」なコミュニケーションをとるようになりました。
生来丈夫な健康優良児で、小6ですでに160㎝を超えていました。
当時はまだ「女らしさ」が求められる時代だったので、近所のおせっかいおばさんから、
「あら~そんなに大きくて、お婿さん見つけるのが大変ね」と言われ子ども心にとても傷つきました。
ムダに成績もよく、心身共に男子より「上」になってしまったために、どこか”欠陥品”のような居心地の悪さを抱えていました。その劣等感は30代まで続いたような気がします。
そのせいか現実世界で華やかなことは起こらず、男っ気もなく少女漫画に没頭する元祖「腐女子」の10代を過ごしました。
漫画家に憧れながらも残念ながら絵が下手だったので、漫画評論家になろうと国立大文学部を志しましたが志望校に不合格、浪人する勇気もなく興味のない政治経済学部政治学科に入学。
全く勉強せず(当時はそれが普通の大学生だったんです)漫然と大学時代を過ごしましたが、男子学生ばかりの環境でブラックジョークと下ネタの才能が磨かれました。
でも松田聖子が大人気の時代、デカいだけの自分への劣等感は相変わらずで、女性としてのアイデンティティを確立することができずにいました。
就職活動の時には何がやりたいのか全くわからなくなってしまい、占いに頼ったり漫画に関わろうかと出版社を受けてみたりと迷走しましたが、結局なんとなく合格した商社に入社。
男女雇用機会均等法制定以前の日本企業文化の中で、初めて著しいジェンダーの壁にぶつかりました。
今となっては笑い話ですが、女性は全員結婚退職、事務職の女性には名刺も会社の手帳も配布されず、忘年会前は仕事を抜けて宴会芸の練習に精を出すことを余儀なくされました。
セクハラという言葉もなく、壁にはヌード写真のカレンダーが貼られ、「鬼頭さん」は男性社員に「エロい」と揶揄され、新入社員の履歴書を男性社員が回し読みして顔写真を評価するという、なんでもアリの時代でした。
「女らしさ」に欠ける私はずっと居心地が悪く、留学でもしようかと考えていた頃、偶然出会った台湾人の元夫と電撃恋愛をし会社を3年で退職。人生一切をリセットしたい、という逃避行のような甘い考えでの結婚でした。
新天地を求めて25歳で移住した台湾で、テコンドー道場のおかみさんをやりながら、日本語教師となりました。
戒厳令が解除されたばかりの台湾は経済成長の黎明期で熱気にあふれ、日本に憧れる若者が多かったため日本語教師は普通の会社員の2~3倍の収入を得られる仕事でした。
もともと国語が得意だったので、日本語を教えることはとても面白く、中国語の勉強も楽しかったです。
ただ、あまりにも勢いで結婚してしまった夫とは意思疎通が図れず、お互いの未熟さを乗り越えられずに同居は2年半で破綻。
生後3か月の息子を抱いて無一文で日本に帰国する機内では、「この飛行機が落ちてすべてが終わりますように」と真剣に願ったものでした。
自業自得とはいえ、人生が一番辛かった時でした。
帰国後実家の世話になりながら、台湾の航空会社の東京支社に転職しました。
台湾と日本を行き来しつつ修復を模索しましたが、結局4年の別居後離婚しました。
実家の両親に息子の世話をしてもらいながら空港内で不規則なシフト勤務に従事しましたが、仕事と育児の両立の難しさを痛感したものです。
息子が小学2年生の時、母子家庭への劣等感からとにかく再婚したくて、まだ先駆けだった婚活サイトでお見合いをし、急いで結婚するも、やはりうまくいかず2年で離婚しました。
この時はさすがに、「誰にでもできる結婚さえまともにできない私はなんなのだろう?」と深く落ち込みました。
今思えばうつ状態だったのだと思いますが、まだ心理の知識がなく自覚もありませんでした。
その後会社で受けたメンタルヘルス研修でカウンセリングという仕事に興味を持ち、息子の小学校卒業を待ってスクールに通ったりセミナーに参加したりし始め、一念発起して大学院に入学、夫婦問題をテーマに研究しました。
久しぶりの学生生活は頭が回らず若い学生との能力差に愕然とし、結構辛いものがありましたが、夫婦問題や女性の生き方に関するカウンセリングをしたいという思いは強くなりました。
在学中に、「夫婦」「男女」「カウンセリング」などをキーワードに仕事を探し、セクシュアリティカウンセリングを専門とした会社でアルバイトを始めました。
大学院修了後その会社の社員となり、8年間におよそ1,000名のカウンセリングに携わりました。
今振り返ると、2回の離婚でどん底に落ちた時にかえって開き直れたこと、カウンセリングの勉強を通して徐々に自分を肯定的にとらえることができるようになったことで、いつの間にか「女性として欠陥がある」という長年の劣等感が消失したのだと思います。
カウンセリングは、誰かの役に立ちたいという思いから学び始めたのですが、一番救われたのは自分自身だったのでした。
その後、都内のカウンセリング会社の契約カウンセラーとなり、個人面談の他、自治体や大学に派遣され相談業務に当たってきました。
また2011年より、にこぐまカウンセリング・アソシエーションを開室し、主にセクシュアリティや女性特有の悩みに特化したカウンセリングを行っています。
熟田、岩谷という仲間も得て、QOL(Quality of Life、生活の質)を豊かにするためのセクシュアルコミュニケーションをテーマに日々尽力しています。